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神戸地方裁判所 昭和60年(ワ)964号 判決 1989年1月31日

原告

江部富男

右訴訟代理人弁護士

野口善國

被告

藤田稲実

右訴訟代理人弁護士

藤本裕司

中垣一二三

針間禎男

綿島浩一

主文

一  被告は原告に対し、金一一三万九五九七円とこれに対する昭和六〇年七月一二日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを七〇分し、その六九を原告の、その一を被告の負担とする。

四  この判決は、原告勝訴の部分に限り、仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求める裁判

一  原告(請求の趣旨)

1  被告は原告に対し、金六九二六万三八〇九円とこれに対する昭和六〇年七月一二日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  被告(請求の趣旨に対する答弁)

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  原告(請求原因)

1  交通事故の発生

(一) 発生日時  昭和五七年一二月三日午前一時二〇分ころ

(二) 発生場所  神戸市長田区北町二丁目九番一号先路上

(三) 加害車両  普通乗用自動車(神戸五六す一九一九。以下「加害車両」という。)

右運転者  訴外生柄相一(以下「訴外生柄」という。)

右保有者  被告

(四) 被害者  原告

(五) 事故態様  横断歩道上を南から北へ横断中の原告に加害車両前部が衝突した。

2  責任原因

被告は、加害車両の保有者であるから、加害車両につき、自賠法三条所定の運行供用者の地位にある。

3  受傷・治療及び後遺症

(一) 原告は、本件事故により、左側頭部打撲、左脛骨骨折、左肘、左足打撲擦過傷、全身打撲の傷害を受け、昭和五七年一二月三日から昭和五八年二月一一日まで七〇日間、公文病院に入院して治療を受けたが、その入院中、意欲減退、思考力減退、不眠などの精神症状が出現し、ついには幻覚、被害妄想、易刺激性、拒食、自閉症状等を呈するに至った。

右公文病院から退院後も、右精神症状は、一進一退を繰り返し、昭和五八年一一月一六日から、昭和五九年二月一六日までの九三日間、財団法人復光会垂水病院(以下「垂水病院」という。)に入院した。昭和五八年一二月二〇日の脳波検査では高振幅鋭波がみられた。右垂水病院退院後は東神経内科に通院しているが、本件事故による頭部外傷後遺症としての頑固な頭痛、頭重感、耳鳴りに悩まされている他、意欲減退、不眠、被害妄想がみられ呆然とした状態の分裂病様反応を示している。昭和六〇年四月八日、右症状は、固定し、治療の見込みがない。さらに、昭和六一年一一月終わりころより、幻聴が著明となり衝動行為がみられ、食事もろくにとらない状態となり、昭和六一年一二月九日から垂水病院に再入院中である。

(二) 因果関係及び後遺症の程度

右後遺症は、原告が本件事故の傷害の治療のため、長期間入院し、ギブスの装着などのストレスを原因として発生したものである。

ところで、鑑定の結果によると、原告の症状について、頭部外傷後遺症としての頭痛・頭重感・耳鳴りと、精神分裂病様反応・性格変化等の二種類に大別しているので、原告も右分類に従ってその因果関係につき主張することとする。

(1) 頭重感・頭痛・耳鳴り

頭書の症状は、自賠法施行令別表第五級二号(神経系統の機能に著しい障害を残し、特に軽易な労務以外の労務に服することができない程度)に該当する。

(2) 精神分裂病様反応

振戦せん妄・アルコール幻覚症・病前性格の強調・ストレスの回避により、幻覚・不眠・無為無欲等の頭書の症状が生じているところ、振戦せん妄・アルコールの幻覚症は、本件事故を契機に発生しており、病前性格の強調・ストレスの回避についても、本件事故による前記頭重感・頭痛・耳鳴り等のストレスがその原因ないしは契機となっているから、右各症状の少なくとも五〇パーセントは本件事故に起因するものと法的に評価されねばならない。

4  損害

(一) 休業損害

金 一三八万二四七八円

原告は、本件事故当時、訴外アジア化学工業株式会社に工員として勤務しており、その給与は月額金二〇万八三八〇円であったところ、本件事故により、昭和五八年五月一日から昭和五九年四月七日まで、本件後遺症により休業を余儀なくされたから、右期間の休業損害は、次の計算式のとおり、金二三八万二四七八円となる。

208380÷30×343=2382478

(二) 入・通院慰謝料 金 一〇〇万円

原告は、本件後遺症により、前記のとおり九三日間の入院治療(公文病院)と、二五〇日間(昭和五八年五月一日から同年一一月一五日までと、昭和五九年二月一七日から昭和六〇年四月七日まで)の通院治療を余儀なくされたところ、右入・通院による原告の精神的苦痛を慰藉するには少なくとも金一〇〇万円を要する。

(三) 入院雑費

金 五万五八〇〇円

ただし、前記九三日間の入院一日につき金六〇〇円の割合で計算

(四) 後遺症逸失利益

金四七〇二万五五三一円

労働能力喪失期間 三二年間(ホフマン係数一八・八〇六)

労働能力喪失率 一〇〇パーセント

基礎月収 金二〇万八三八〇円

208380×12×1.00×18.806=47025531

(五) 後遺症慰謝料

金一二五〇万円

(六) 弁護士費用 金六三〇万円

5  よって、原告は被告に対し、自賠法三条に基づき、右損害金合計金六九二六万三八〇九円とこれに対する本件事故後であり、本件訴状の日の翌日である昭和六〇年七月一二日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  被告(請求原因に対する認否)

1  請求原因1(本件事故の発生)、同2(責任原因)の各事実はいずれも認める。

2  同3は争う。

(一) 原告の病状が精神分裂病であるとすれば、本件事故と相当因果関係はない。精神分裂病は現在のところ原因不明の疾患であり、内因精神病であり、外傷性のものはないところ、原告主張のようにストレスなど精神的要因が精神分裂病の発病や増悪に影響を及ぼすとの説は、成因論の一つとして研究されてはいるものの、いまだ試論にすぎない。従って、原告において、元来精神分裂が進行中であったが、本件事故による入院中たまたまその症状が一見顕著になったものか、あるいは、精神分裂病の潜在的素因が偶然この時期に発現したものと考えられる。

また、仮に、本件事故による入院治療等によってその症状発現が誘発されたものとしても、右精神的要因は誘因の契機にすぎないものであるから、本件事故と原告の精神分裂病との間に相当因果関係はない。

(二) 鑑定の結果によると、原告の精神分裂病様状態は、アルコール依存症(振戦せん妄・アルコール幻覚症)、病前性格の強調とストレスの回避によるものとされ、頭部外傷後の分裂病様状態でも性格変化でもないとされており、アルコール依存症による精神症状が明白であるから、本件事故と原告の右精神症状との因果関係は存在しない。

また、鑑定の結果によると、原告の頭痛・頭重感・耳鳴りの症状について、頭部外傷後遺症であるとされるが、質問に答えがたくなると頭が痛いということが多いという原告の状態に鑑みると、逆に原告の現在の精神症状が右頭痛等の自覚症状を生み出しているものというべきであるから、右鑑定結果には疑問がある。

3  請求原因4は争う。

三  被告(抗弁)

1  示談の成立

昭和五八年二月一〇日、原告・訴外生柄・被告三者間に、「①訴外生柄は、本件事故に基づく損害金として、昭和五七年一二月三日から昭和五八年三月一〇日までの原告の治療費を支払うほか、既払金を含め金九五万八八三四円を支払う。②原告に万一将来後遺症が発生した場合には、原告は被告の自賠責保険にのみ請求できる。③右①、②以外に三者間にはなんらの債権債務のないことを確認する。」旨の示談が成立し、右示談に従って、被告は原告に対し、右治療費及び金九五万八八三四円を支払った。

従って、被告は原告に対し、本件事故に基づく損害賠償債務を負っていない。

2  過失相殺

本件事故は、訴外生柄が加害車両を運転して、青色信号に従って本件事故現場交差点を西から東に向け進行したところ、原告は南北方向の信号が赤色であったにも拘わらず、酔余、南から北に向け小走りに加害車両直前に飛び出してきたために生じたものであり、事故発生時刻が深夜であったから歩行者である原告にはライトの明りにより加害車両の接近を容易に知りえたことをも考慮すると、原告の右過失は本件損害額の算定にあたり斟酌されるべきであり、その過失割合は九〇パーセントを下回ることはない。

四  原告(抗弁に対する認否)

1  抗弁1は争う。

仮に、被告主張のような示談契約が成立していたものとしても、右示談契約当時、示談当事者は、本件後遺症の発生及びこれに基づく損害の発生を予測していなかったから、右示談の効力は本件後遺症に基づく損害には及ばないものというべきである。

2  抗弁2は否認し、その主張は争う。

原告が横断歩道を横断開始した時点においては、その信号の表示は青色であったし、仮にそうでないとしても、少なくとも青色点滅表示であった。

五  原告(再抗弁)

被告主張の示談契約当時、被告は心身喪失の状態にあったから、右契約は無効である。

仮にそうでないとしても、被告主張の示談契約はあまりにも被害者である原告に一方的に不利な内容であって、公序良俗に反するから無効である。

六  被告(再抗弁に対する認否)

再抗弁事実は否認し、その主張は争う。

第三  証拠<省略>

理由

一請求原因1(本件事故の発生)、同2(責任原因)の各事実はいずれも当事者間に争いがない。従って、被告は原告に対し、自賠法三条に基づき、本件事故により被った原告の損害を賠償する責任がある。

二受傷・治療経過及び医師の所見等

<証拠>によれば、次の事実が認められる。

1  原告は、本件事故により、全身打撲・左側頭部打撲・左膝左足打撲擦過傷・左脛骨骨折(左膝関節内骨折)の傷害を負い、昭和五七年一二月三日から昭和五八年二月一一日まで七〇日間公文病院に入院し、同月一二日から同年三月九日まで同病院に五日間通院して治療を受けたが、左脛骨骨折の傷害は左膝関節の運動傷害(自賠施行令別表第一二級七号に相当する)の後遺症を残して、同年三月九日、症状固定した。

2  原告は、右公文病院入院中、一二月四日には左大腿部から足関節までギブスを施行され、打撲部位の疼痛・頭痛・不眠等の症状はあったものの、歩行器により歩き回り、同年一二日には杖歩行を許可され、同年二二日には外出を許可されて外出するなど普通の入院生活を送っていた。

原告は、同年二三日の夜一一時ころから無断外出し、翌二四日午前一時二〇分ころ飲酒のうえ帰院したが、このころから言動に不自然なところがみられるようになった。同月二七日午後一〇時過ぎころ。原告は、汗を多量にかき、両上肢を震わせ、うなり声をあげて興奮状態となり、ふとんを頭までかぶり胸をたたきながら声をあげて泣くなど異常行動を示し、同日夜半には、看護婦の詰所にでかけ、「強制退院させてほしい」などと意味不明の言葉を発し、少し暴れた。翌日、原告は、前日の出来事は何も記憶がないようであり、時々こんなことがあると看護婦に話していた。

3  担当医師である公文裕医師(以下「公文医師」という。)は、同月二九日、原告を島田クリニックの島田昭三医師(以下「島田医師」という。)に受診させた。公文医師の島田医師に対する書状には、要旨「原告には不眠と興奮状態並びに被害妄想の疑いがあり、精神分裂病発作前の症状かアルコールの禁断症状なのかわからない。同室の患者が危険があり一緒におかれない旨訴えている。」旨、島田医師の公文医師にたいする返信には、要旨「原告の症状は、随分前からの潜行的に存在していた精神分裂病が骨折を契機に顕現化したものと考えられる。非常に慢性のもので、症状の進行はあまりなく、他の患者に迷惑をかけることも殆どありません。」旨の記載がある。

4  投薬により原告は小康状態にあったところ、原告は、その希望により、同月三〇日、飯尾病院に転院したが、翌昭和五八年一月二日、同病院で暴れ、窓ガラス一三枚を割る異常行動を示し、公文病院に再入院した。後記垂水病院の医師による聞き取り(甲第六号証中の記載)によると、右異常行動についての原告の陳述は次のとおりである。

「影が出てきたので、外出許可をもらって楠公さんに友達と一緒に行き、酒をコップに一杯か二杯飲んで帰院したが、影が呼ぶので、また外出して一杯酒を飲んでガラスを割った。酒の飲みすぎやと思う。影の声は二人の男で、仕事休んだり飲みすぎると出てくる。」

その後、原告は精神的には安定し、言動も入院時と変わりのない状態で推移し、整形外科にはリハビリ治療を受けて、昭和五八年二月一一日、公文病院を退院し、同月末まで同病院に通院した。

5  昭和五八年二月、三月ころ、原告は従前の通勤先であるアジア化学工業株式会社に一時職場復帰した模様であるが、その後の生活状態は明らかでない。昭和五八年一一月一六日、原告は、警察官に保護され、長田区長の同意により、精神分裂病の疑いの病名で昭和五九年二月一六日まで九三日間垂水病院に入院して治療を受けた。同病院の診療録中の聞き取り書き記載によると、右入院前の原告の状態につき、原告は、要旨、次のとおり陳述している。

「昭和五八年一一月はじめころから、酒を飲みすぎて、二、三人の話声が聞こえるようになった。何をして警察官に保護されたのかはわからない。わからなくなる一時間前から声が聞こえた。病院に入ったら完全になおった。誰か影の人が自分の悪口を言って逃げたように思って、追い掛けて違う人をなじってしまった。後で許してもらった……悪い夢をみていたみたい……」

6  同病院退院後、原告は、昭和五九年二月二四日から、公文病院の紹介により東神経内科に通院して東博文医師(以下「東医師」という。)の治療を受けたが、同日付の公文医師から東医師への紹介状には、「数日前から様子がおかしいと世話をしている知人が連れてきました。」旨、東医師の返信には、「昭和五九年二月上旬ころから不眠・焦そう感が出現してやや不穏状態を呈しており、また、今後精神運動興奮状態となるおそれもあるようです。しばらく投薬を続け様子をみることにします。」旨の記載がある。その後、原告は、無為無欲状態の生活を送っていたが、昭和六一年一二月はじめころ、幻聴が著明となり、夜間不穏状態が著明で衝動行為(徘徊)・不眠が認められたため、昭和六一年一二月九日から昭和六二年二月二七日まで垂水病院に入院した。そして、本件訴訟の鑑定のため、昭和六二年一一月一一日から同月二〇日まで京都府立医科大学附属病院に入院して諸検査を受けたが、現在もなお、活動性の低い無為無欲・社会不適応状態にある。

7  昭和五九年七月一九日付公文医師作成の自賠責後遺症診断書(甲第二号証)には、要旨、「症状固定日 昭和五九年二月二四日 傷病名及び後遺症状左側頭部打撲・左脛骨骨折・左膝左足打撲擦過傷・全身打撲・精神分裂病・左膝関節痛・精神障害・日常生活動作の著しい低下、精神神経障害は、当病院に入院中精神分裂病を併発し、事故後の精神的負担により誘発されたものである。事故がなく、事故によるギブス固定等の精神的負担がなければ併発しなかったものと考えられる。現在、自閉・意欲減退・妄想があらわれ、著しい日常生活動作の低下を来している。就労不能。」なる記載が、昭和五九年七月二〇日付垂水病院内富勤医師作成の自賠責後遺症診断書には、要旨、「症状固定日 昭和五八年一一月一六日。傷病名及び後遺症状 精神分裂病、意欲減退・思考力減退・不眠症 入院時、精神所見として、幻覚・被害妄想が認められ、易刺激性・興奮状態を呈し、拒食・自閉症状のため精神療法とともに補液等の身体療法を行った。昭和五八年一二月二〇日脳波検査にて高振幅鋭波を認めた。交通外傷等の後遺症に併発した精神病状態の可能性がある。昭和五九年四月時点ではかなり軽快していた。」旨の記載が、昭和六〇年四月八日付東医師作成の自賠責後遺症診断書には、要旨、「症状固定 昭和六〇年四月。傷病名及び後遺症状 分裂病様反応、頭痛・焦そう感・不眠。本件事故後、入院治療中に妄想・幻覚症状出現し、興奮状態が続き、垂水病院に入院して治療を受けた。昭和五九年二月二四日当院を初診したが、このころも被害妄想・幻覚症状がみられ、昏迷状態を呈していた。経過は良好で強制入院の必要はないが、就労不能である。全経過からみると、事故が誘因であるものと考えられ、長期療養を要するものと思われます。なお、現在呆然とした状態であり、身辺自立も不能である。」旨の記載がそれぞれなされている。

8  東医師は原告を昭和五九年二月二四日から現在まで継続して診察している開業医であるが、同人の証言による同医師の原告の症状と本件事故との関係等に関する所見は、次のとおりである。

原告の病像は精神分裂病と考える。精神分裂病は後天性の病気であるところ、本件事故に伴う精神的ショック、環境的変化が発病の引き金・関節的な原因(誘因)である可能性はある。精神分裂病は、脳の器質的疾患でなく機能的疾患であることはほぼ明らかとなっているが、その原因等はよくわかっていない。しかしながら、アルコール性精神病は禁断症状が短期間ですむ特徴があるところ、原告の場合は、幻覚・妄想状態が一週間程度続き、長期にわたっているので、アルコール性精神病とはいえないと思われる。脳挫傷による外傷性精神病の可能性は明確に否定できる。原告の場合、本件事故に伴うストレスを誘因とする精神分裂病であるのか、たまたま発病時期が本件事故後に一致しただけなのかは区別はつかない。

9  京都府立医科大学助教授能登直同助手中村真理子の鑑定の結果による同人らの所見は次のとおりである。

原告は、本件事故前から、知的レベルとしては、軽度の精神発達遅滞を示し、社会的適応は弱く、意志欠如型の人格の持ち主であって、持続性のない生活を送りやすく付和雷同的でストレス耐性も低く、ストレスの多い状況では、逃避の機制を選択しやすく、アルコールなどにおぼれやすい性格・特徴を有する。原告の現在症状の解釈として考えられるのは、(1)精神分裂病②頭部外傷後の分裂病状態③アルコール依存症(アルコール幻覚症・振戦せん妄)④精神発達遅滞者の反応⑤頭部外傷後の性格変化⑥頭部外傷後遺症としての頭痛・耳鳴り等である。

原告の頭部外傷は意識障害のない単純型あるいは脳震とう型であったこと、原告はギブス固定されたが、入院一週間後には歩行器で歩き回り、その二日後には杖歩行を許可されているから、精神症状発現前に身体的拘束状態にあったとはいえないこと、一二月二三日に無断外出・飲酒帰院した三日後の二七日に発汗多量・興奮状態・意味不明の言動にて向精神薬の投与を受け、翌日には平常に戻り、前夜の記憶は欠落していること、断酒三日後に意識障害を伴う精神運動興奮を呈していること、原告の供述から以前にも同様のことが何回かあったものと推測されることから考えると、原告の右症状は、アルコール離脱時の振戦せん妄と考えるのが相当である。また、飯尾病院の窓ガラスを割った原告の行動について検討するに、アルコール性幻聴が三か月以上にわたって持続する場合を慢性アルコール性幻覚症と呼び、多くは、振戦せん妄に引き続いて生じるところ、右行動前に幻視幻聴の存在が窺われ(原告は「酒を飲みすぎるとでてくる。」と供述している。)、かつ事故以前連日飲酒していたことを考え合わせると、右はアルコール幻覚であったと判断される。そして、アルコール幻覚症の診断基準としては、①慢性アルコール幻覚症の初期には、精神分裂病の一級症状のいくつかを示しながら、寛解すると、情意鈍麻などの分裂病性欠陥状態は示さず、記銘力障害や計算能力低下を残すこと、②アルコール幻覚症患者の病前性格はパラノイドやスキゾイドなど分裂病に親和的なものはないこと、③アルコール幻覚症患者の脳波検査では、拡散性のアルファと判定され、CTスキャンで著明な皮質萎縮と脳室拡大を指摘されるものがほとんどであること等をあげうるところ、原告の場合、③は該当しないが①②はほぼ該当する。もちろん、幻聴・被害妄想・幻視は精神分裂病にもみられる症状であるが、それだけでは分裂病とはいえないのは勿論であり、右のほか、原告の幻聴や被害妄想には一般的他者の出現がなく、分裂病患者のそれと異なること、原告には、現在、幻聴を思わせる訴えはあるが、明らかな妄想はなく、妄想気分や分裂病にみられる思路障害・自我障害は認められないことを総合勘案すると、原告の精神症状全般は、精神分裂病というより振戦せん妄やアルコール幻覚症の病像と判断する。

次に、脳の器質的変化は認められず、原告に交通外傷後の性格変化があったものとはいえないが、本件事故後、原告の病前性格が強調されたとはいいうる。

そして、原告の受傷翌日より訴えていた頭痛、後に出現した頭重感・耳鳴りは頭部外傷後遺症である可能性が高く、今後も長期間続く可能性は高い。ところで、精神発達遅滞者の場合、通常では精神症状を起こさない程度の刺激で幻覚や精神運動興奮が引き起こされるといわれている。しかしながら、原告は入院三週間経過後に精神症状が発現しており、しかも外出時の飲酒以外に生活に特別な変化はみられないから、原告は精神発達遅滞者ではあったが、同人には精神症状を引き起こすような心因があったものとはいえない、もっとも、原告は精神発達遅滞者としてストレス耐性に弱く、頭重感等のストレスも現に存在し、そのため回避的な生活態度、活動性の低下などが促進されたであろうとは指摘しうる。

以上を総括すると、原告は、元来、知能低下が疑われる状態にあり、単純な仕事に従事して連日飲酒する生活を送っていた者であるが、本件事故により公文病院に入院後三週間目ころ、精神運動興奮を呈し、その後も被害妄想的な幻聴が時折出現し、精神病院に入・退院を繰り返しており、意欲低下がみられ、身辺の雑事はほとんど知人の世話になっているところ、これらの原告の症状は、振戦せん妄・アルコール幻覚症と、病前性格の強調及びストレスの回避による症状と考えられる。アルコール幻覚症の発病時期は必ずしも明らかでないが、本件事故以前から存在したことを窺わせる原告の供述もあり、本件事故後の入院が断酒の機会を作り振戦せん妄を引き起こしたものと考えるが、それ以上に本件事故とアルコール幻覚症との間には因果関係は認められない。ただし、原告が、本件事故による頭重感等のため日常生活に回避的となり活動性が低下しているとはいいえ、その意味で関連はないとはいえない。

また、原告の頭重感・頭痛・耳鳴りは、頭部外傷後遺症と考えられ、今後長期間にわたり続き、これと平行して活動性の低下した不適応状態も続くだろうと予測され、幻聴については、向精神薬の服用により改善する可能性はあるが、確実とは言えない。

以上の事実が認められる。

三右認定事実を前提に検討するに、右二9認定の鑑定人能登直外一名の鑑定の結果は、原告を約一〇日間入院させて諸検査をした精神的疾患を専門的に研究する医学者の見解として、内容的にも首肯するに足りるものというべきである。原告の精神的症状をもって精神分裂病であるとする公文医師、内富医師、東医師の前記各診断は右鑑定結果と抵触する部分に限り採用しない。従って、原告の本件事故後現在に至る幻聴その他の妄想、非活動的な生活不適応状態の症状の主たる原因は、アルコール性精神病と認めるのが相当であり、本件事故とその意味では直接因果関係のあるものとは認めるに足らないものというべきであるが、右鑑定人らが指摘するように、本件事故による頭痛・頭重感・耳鳴り等の頭部外傷後遺症が、右アルコール精神病の症状である活動性の低い無為無欲状態を助長し、あるいは右頭部外傷後遺症を含め本件事故による環境の変化が、原告の逃避的・意志欠如的性格ないし生活態度を強調して原告の意欲減退・日常生活動作の著しい低下を助長する作用を及ぼしたことは否定できないものと解される。

そして、原告の現在の状態は無為無欲の就労不能状態にあるものと認められ、右状態に陥ったのは、右のとおり、主としてアルコール精神病によるものというべきであるが、本件事故との間にも右記載の限度で因果関係が存在することは否定できず、その影響力(起因力)は頭部外傷後遺症によるものを含め、二〇パーセントと評価し、その限度で被告の責任を肯定するのが相当である。

四示談契約の抗弁について

<証拠>によれば、昭和五八年二月一〇日、原告・訴外生柄・被告三者間に、「①訴外生柄は原告に対し、昭和五七年一二月三日から昭和五八年三月一〇日までの治療費を支払うほか、既払金三五万八八三四円に加えて金六〇万円(治療費を除き合計金九五万八八三四円)を支払う。②原告に万一後遺障害が発生した場合には、原告は訴外生柄の自賠責保険にのみ請求する。③原告はその余の請求を放棄するとともに右①②以外に三者間になんらの債権債務のないことを確認する。」旨の示談契約が成立したこと、右契約に従って、原告は右金六〇万円の支払を受け、右治療費についても支払がなされたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

ところで、交通事故による全損害を正確に把握しがたい状況のもとにおいて、早急に、小額の賠償金をもって示談がなされた場合においては、右示談によって被害者が放棄した損害賠償請求権は、示談当時予想していた損害についてのみと解すべきであって、その当時予想できなかった後遺症等については、被害者は、後日その損害の賠償を請求することができるものと解すべきである(最高裁判所昭和四三年三月一五日判決参照)。

これを、本件示談契約について検討するに、前認定のとおり、示談契約の成立した日である昭和五八年二月一〇日は、原告が公文病院を退院する前日であって、入院中に二度ほど精神病の疑いのある異常行動はあったものの、その後、原告は入院当初と変わりのない生活状態で左膝関節運動障害のリハビリ治療に専念していたこと、当時、左膝については三月一〇日ころで治療が終了し、同部位に後遺症が残ることが予想されていたこと(右示談契約①の治療費支払期間が三月一〇日までとされていることは右事実を裏付けるものというべきである。また、現に、前掲甲第五号証公文病院の入院診療録中の記載によると、同年三月九日には、原告の交通事故外傷は、自賠法施行令別表第一二級相当の左膝運動障害の後遺症を残して症状固定した旨の後遺症診断書が作成されていることが窺われる。)等、右契約当時の原告の治療状況に鑑みると、右示談契約の趣旨は、本件事故による外傷と左膝の後遺症に伴う損害をその対象とし、前者については、治療費は被告において支払うほか、原告は被告から既払金を含め九五万八八三四円の支払を受けることとし、後者については、原告は被告の自賠責保険にのみ請求できることとしたものであって、原告の精神病様の症状については、当時、その実態や継続性が明らかでなく、原告がその後就労不能の状態に陥るものとは予想できなかったのであるから、右示談契約の対象とはなっていなかったものと認めるのが相当である。

とすれば、被告の示談契約の抗弁は、その余の点につき判断するまでもなく理由がない。

五過失相殺

当事者間に争いがない請求原因1の事実に<証拠>を総合すると、本件事故は、深夜、幅員約三五メートルの県道神戸明石線の本件事故現場交差点西側の横断歩道を、南から北に向け、酔余(呼気一リットル中のアルコール濃度0.55ミリグラム)、歩行者用対面信号が赤を表示しているのを無視して、小走りに横断中の原告を、おりから、時速約三五ないし四〇キロメートルの速度で、青色信号に従って(交差点手前約二〇メートルの地点で青色となった)、同交差点に西から東に向け進行していた加害車両の運転手訴外生柄が、その北側車線を走行していたタクシーに気をとられていたため、その発見が遅れ、その手前約6.5メートルの地点で発見し、急制動の措置をとったが及ばず、加害車両右前部を原告に衝突・転倒させた事故であることが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

右事実によれば、原告には、赤信号無視、酒酔い・危険横断の過失があったものというべきであり、本件損害額の算定にあたっては、右原告の過失を斟酌するのが相当である。

そして、右原告・訴外生柄の過失の内容・程度その他本件にあらわれた諸般の事情を考慮すると、過失割合は、原告八〇パーセント、訴外生柄(被告側)二〇パーセントと認めるのが相当である。

六損害

1  逸失利益

前記二認定のとおり、原告は、昭和五八年一一月一六日、垂水病院に入院して以降は、寛解・再燃を繰り返しながら、アルコール性精神病等による意欲減退・社会生活不適応・不就労の状態にあり、今後も相当長期間にわたり右状態が続くものと認められるところ、右事実のほか前記二認定の諸事実を総合すると、右状態による原告の逸失利益は、労働能力喪失期間昭和五八年一一月一六日から一二年間(ホフマン係数9.215)、労働能力喪失率八〇パーセント、月収金二〇万八三八〇円(証人岩江泉の証言並びに弁論の全趣旨によれば、本件事故前原告はアジア化学工業株式会社に勤務し、月平均二〇万八三八〇円の収入をえていたものと認められる。)を基礎数値として算出するのが相当である。従って、原告の右逸失利益は、次の計算式のとおり、金一八四三万四一二八円(円未満切捨。以下同じ)となる。

208380×12×0.8×9.215≒18434128

2  入院雑費

前認定のとおり、原告は本件事故後に発生した精神症状により入・通院を余儀なくされたことが認められるところ、その入院雑費としては、原告主張のとおり、一日六〇〇円の割合で計算した九三日分の合計金五万五八〇〇円をもって原告の損害と認める。

3  寄与度による減額

右1、2の損害額の合計は、金一八四八万九九二八円となるところ、前記三認定のとおり、右損害のうち、本件事故に起因する損害は、その二〇パーセントと認め、その限度で被告の責任を認めるのが相当であるところ、右寄与度による減額後の損害額は、金三六九万七九八五円となる。

4  慰謝料

前認定の本件事故の原告の精神症状に対する起因力、原告の精神症状治療のための入・通院期間その他本件にあらわれた諸般の事情を総合考慮すると、原告の精神症状に伴う、本件事故と相当因果関係のある慰謝料としては、金一五〇万円をもって相当であると認める。

5  過失相殺による減額

以上のとおり、原告主張の後遺症につき、本件事故と相当因果関係のある損害は、右3、4の合計金五一九万七九八五円となるところ、前認定の過失割合(原告八〇パーセント)にしたがって、過失相殺による減額をすると、過失相殺後の損害額は、金一〇三万九五九七円となる。

6  弁護士費用

原告が弁護士である原告訴訟代理人に本件訴訟を委任していることは本件記録上明らかであり、相当額の着手金・報酬を右代理人に支払うべきことは弁論の全趣旨により認められるところ、本件訴訟の内容、経過、立証の難易、認容額等諸般の事情を考慮すると、本件事故と相当因果関係のある損害として被告に請求しうべき弁護士費用は金一〇万円をもって相当であると認める。

七結論

以上の次第であるから、原告の本件請求は、右損害金合計金一一三万九五九七円とこれに対する本件事故後であり、本件訴状送達の日の翌日である昭和六〇年七月一二日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余の請求は理由がないのでこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条本文を、仮執行宣言につき同法一九六条を各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官杉森研二)

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